Oリング
ステンレス鋼の流通形態は紐付きと店売りとに分かれる。 紐付きとはステンレスメーカーが最終ユーザーまで把握する形態である(メーカー→商社→最終ユーザー)。紐付き商売ではメーカーと最終ユーザーが直接価格交渉・納期調整を行うケースが多い。 店売りとは問屋が介在し、在庫販売及び切断等の加工を施しユーザーの小ロット・短納期というニーズに答えるべく機能する形態である(メーカー→商社→問屋→各ユーザー)。 日本市場のSUS304は、最近では韓国製など外国材の輸入が増加しており、一定の地位を市場で確立している。このため、必ず国内材を用いたい場合は、注文時にその旨を明示する必要がある。一方でこれ以外の鋼種はまだ国内材が大半である。 2006年からの原料ニッケル予備校 などの影響で、特にオーステナイト系ステンレス鋼の価格は、1年間で2倍以上に上昇した。このため(Niを含まないため)、比較的価格の安いフェライト系ステンレス鋼へ鋼種変更する需要家が増加している。一般にフェライト系ステンレス鋼はSUS304に比べて耐食性に劣ると言われているが、メーカー各社は以前から耐食性を向上させたフェライト系ステンレス鋼を開発しており、2006年秋以降急速にその需要が高まっている。 その例として、新日鐵住金ステンレスが開発したNSSC180(旧YUS180)や、最近ではJFEスチールが開発したJFE443CTという新鋼種がSUS304代替ステンレス鋼として注目を浴びている。 欧州では11世紀末から170年に渡って何度も派遣された十字軍の帰還と共にもたらされたダマスカス剣の製造方法が解らずにいた。ダマスカス剣の鋼はインドで作られたウーツ(wootz)鋼が中東までペルシャ商人によって運ばれ製作されたものであった。この剣にはダマスク(Damask)と呼ばれる日本刀の「錵」(にえ)と同様の渦状の紋様が刃に浮かび上がっていた。 14世紀にはイギリスでも鉄鋼によって刃物類が生産されるようになったが、当時は加熱技術が未熟なために、鍛鉄や錬鉄と呼ばれる低炭素鉄の棒を木炭中で2週間に渡り加熱し続けて融点以下の雰囲気中で炭素をこの鉄棒素材に浸炭させることで、表面と内部で炭素濃度が異なり、表面が泡立った泡鋼(あわこう、Blister)と呼ばれる鋼鉄素材を得ていた。 18世紀に英国がインドを植民地化すると古代からのインドの鉄鋼技術に関心が高まり、特に旧デリーのイスラム寺院の庭に立つデリーの鉄柱の驚異的な耐候性とウーツ鋼に興味が集中した。 ドイツ系イギリス人の時計職人、ハンツマン(Benjamin Huntsman、1704-1776)は金属バネの品質の不満から自ら良質の鋼の開発を始め、1740年に新型溶解炉や燃料用コークス、耐火ルツボ、ガラス粉末の使用などを新たな技術を開発して「ルツボ鋳鋼法」を作り出した。これにより鋼は英国でも量産出来るようになったが、まだダマスカス鋼には劣っていた。 ロンドンの刃物師、ストダート(James Stodart、1760-1823)は正確な焼戻しによってウーツ鋼の硬度をさらに高め、英国製造の鋼よりウーツ鋼を輸入すべきであると提案した。東インド会社はインドのウーツ鋼を英国へ輸入し、ストダート自身も英国のルツボ鋳鋼技術の向上に取り組んだがウーツ鋼を越える製品は得られなかった。 この頃、フランスのヴォークラン(Louis Nicolas Vauquelin、1763-1829)は当時「シベリアの赤い鉛」と呼ばれていた鉱物から新種の灰色の金属を発見し、論文『シベリアの赤い鉛とそれに含まれている新しい金属の研究』を発表し、クロム(Chrôme)と命名した。 後年、電磁気学の父として有名なファラデー(Michael Faraday、1791-1867)は、分析化学者として有名になりつつあった1815年からは、英国王立研究所で英国国内でウーツ鋼を製造する技術を研究していた。ウーツ鋼からは微量のシリカとアルミナが検出され、1819年4月にウーツ鋼から作られたダマスカス剣の紋様は土類成分によって生じるとする論文『ウーツ、すなわちインド鋼の分析』を発表した。国産鋳鋼に微量のシリカとアルミナを添加したが、おせち にはならなかった。 1819年夏には成分分析を委託されていた製鉄所に近い銅精錬所で銅が金や銀との合金となることで硬度が増すことを知り、鋼にも応用できないかと考えた。 ファラデーは研究所でストダートと共に、1770℃以上まで加熱できるようにルツボを改良し、白金も含めた貴金属類を鋼と合金にする研究を始めた。ニッケル、銀、白金、ロジウム、銅、錫との合金を次々に生み出しては性状・特性を測定し、1820年に連名で『改良の目的で行った鋼合金の実験』を発表した。地元英国はもとより、特にフランスで大きな反響があった。その後も鋼と貴金属との合金の研究を続け、鋼銀合金がウーツ鋼を越える硬度の金属として量産が始まった。その後、1920年代にファラデーは研究の舞台を物理学に移していった。 フランスの鉱山技師、ベルティェ(Pierre Berthier、1782-1861)はファラデーとストダートの論文を元に、まだ誰も試みていない脆い金属であったクロムの鉄との合金を試みた。当初、炭素濃度の高い鋼で合金を作ったため、非常に脆かったが硬度は高く、王水でも容易に侵されない耐酸性を示した。これが最初のフェロクロムである。 次に炭素1%程でクロム1.0%と1.5%の塗装工事 を作り、ナイフとかみそりに加工したが良好な切れ味と共にダマスク紋様が現れた。1921年に論文によってフェロクロムとその耐酸性を示したベルティェは、その後、ボーキサイトをアルミの原料として発見したことで、より有名となった。ウァラデーはベルティェの論文を読んで、すぐさまクロム鋼を実験し自身の発表直前の論文『鋼の合金について』に加えた。 父の製鋼工場を継いだ、英国、シェフィールドのR.A.ハドフィールド(Robert Abbott Hadfield、1858-1940)は1878年のパリ万博でマンガン鋼を知ってから研究を始め、高マンガン鋼の系統的な分析を行なって1882年に高マンガン鋼の公演を行なった。その後、鉄とシリコン、鉄とアルミニウム、鉄とクロムに関する研究を行った。鉄とクロムの研究過程で、合金鋼の権威的研究者の誤った「クロムは鉄の耐酸性を劣化させる」という報告によって、クロム鋼の耐酸性を見落とし、同じシェフィールドのH.ブレアリーにクロム13%、炭素0.3%の刃物用ステンレス鋼を発明されて名誉を逃した。 これ以前にも前述のようにフランスのベルティェが「高クロム鋼は王水でも容易に侵されない耐酸性を持つ」と論文発表していたが、耐酸性クロム鋼の発明者はベルティェでもハドフィールドでもなく、ブレアリーとなった。ハドフィールドはその後も会社経営とともに研究を続け、1908年にはナイト爵を、1917年には準男爵に叙せられるなど、活躍した。